いまや宗教もテクノロジーを積極活用する時代になりました。お寺では集客のためにプロジェクションマッピングの活用が盛んに行われ、ネット参拝を行っている神社も多数見られます。元来宗教はテクノロジーの発展とともに拡大をしてきています。
グーテンベルグの印刷機によって最初に大量に印刷された書籍は聖書でした。その後ルターが大衆が読みやすいように訳したことで拡散し、宗教改革につながった話は有名です。その後のラジオやテレビなどのマスメディアも信者の拡大に貢献しました。
最近ではグーグルの元社員がAIを神として奉る宗教を立ち上げた(『神はAI? 元Googleエンジニアが宗教団体を創立』)ことがとても話題になりました。このように宗教とテクノロジーは切っても切れない関係であるのです。
何故人は宗教に依存するのか。それはきっと、人間が弱い生き物だからでしょう。一人では自然の中で勝ち残れず、社会性で発展してきたのが人間という種族なのです。日本にも戦後、多数の新興宗教が登場しました。その背景にあったのは農村という地域共同体コミュニティから切り離され、都会に集団就職した人達の孤独や不安でした。その受け皿として都会で急速に新興宗教は信者を増やしたのです。
あのオウム真理教もエリートと言われる人達の現代社会に対する疑問や不安の受け皿として、多数の優秀な若者達を吸い寄せました。当時の彼らの拡大に貢献したのは出版物やテレビなどによるプロパガンダでした。彼らが勢力を伸ばした90年代前半にまだ出始めたばかりだったインターネットは、積極的に活用されてはいませんでした。
ではポストインターネット後の現代では宗教はどうなったのでしょう。もちろんインターネットも既存の宗教団体にとっては重要なツールです。一方で、サイバースペースというインターネットによって生み出されたボーダレスな空間上での情報発信が誰でも可能になったことは、それまでとは大きく異なる状況が生まれます。それは言うなれば、「マイクロ神」の登場です。
サイバースペースの中ではある意味誰もが、とても小さくはあっても「ひとりの神になれる」のです。荒唐無稽な主張でも過激な主張でも言い放つことが可能であり、数人でも賛同者が居れば大きな承認欲求を得ることができる。そこに自分の自己実現を見いだせば、従来の宗教に代わる機能を持っている可能性は大きいのです。
先日発生した有名ブロガー刺殺事件はある意味、ミニオウム事件でもあるのかもしれません。過激な自己主張を繰り返す加害者に対してネットサービスのアカウント停止を繰り返したことが事件のきっかけであったという報道がされていました。現実社会で孤独な人がサイバースペース上でひとりの神になれた場合、アカウントを停止されることはその存在を消されることと同じです。自分を否定された孤独なマイクロ神は過激な行動に出る危険性をはらんでいます。
孤独や不安を宗教という受け皿で抱えてきた人間社会はいま、サイバースペースという新しい受け皿に大量の孤独な人々を抱えています。そこから、例えばサイバースペース上に高度に自分を受け入れてくれる人工知能が登場したとしたら、それがまるでSF小説のように新しい神になることも、この流れから考えれば十分にあり得ることかもしれません。
ただ本質的に考えるのであれば、リアルにしろサイバースペース上に多数存在する、仲間としての共同体コミュニティが何よりも孤独や不安を解消してくれます。日本人が特定の宗教に依存しない形で発展できたのも、地域の共同体コミュニティの果たした役割は大きいものがあるでしょう。これからのシンギュラリティの時代、人類と宗教の関係はどのようになるのか、これも興味深いテーマのひとつなのだと思います。
D4DR 代表取締役社長